「アルスラーン戦記@ 王都炎上」 田中 芳樹:著 角川文庫

 立ちさる王子の後ろ姿に一礼すると、大将軍はまた甥をしかりつけた。
 「ダリューン、諫言するにしても時機というものがあろう。陛下がせっかく、おまえの功績と才能を認め、万騎長に任じてくださったというのに、せっかくの抜擢を自分から無にするとは、浅慮のいたりではないか」
 「そうです。諫言には時機というものがあります。負けてからではおそい
 国王や王子に対して遠慮せざるをえなかった、その分だけ伯父に対してはいっそう遠慮がなくなるダリューンであった。
 「そもそも伯父上、この戦いが終わって、私が生きていられるとはかぎりません。幽霊になってから諫言できるほど、私は器用ではありませんから……」

『第1章 アトロパテネの会戦』

 宮廷を出奔するとき、ナルサスはアンドラゴラス王に置き手紙をしていったのだ。ダリューンの伯父ヴァフリーズなどに言わせると、それがよけいなことというのだが、ナルサスは、不正を横行させている政治のありさまを批判し、神官の金貸しを禁じること、地下用水路の管理を農民たちの代表にゆだねること、身分の高低にかかわらず法を公正に適用することなどを提案し、最後にこう書いたのだった。
 「王よ、目をひらいて広く国政の実情をごらんください。美しいものばかりでなく、みにくいものを直視するよう、おつとめいただければ幸いです

『第2章 バシュル山』

 「それまでにエクバターナにもどりたい。ナルサス、おぬしはどうしても智恵を貸してくれぬのか」
 王子の真剣な眼光から、ナルサスは視線をそらせた。
 「せっかくですが、殿下、私は山にこもって芸術的創造に余生をささげるつもりでおります。もう山の外のことに関心はありませぬ。どうか悪く思わないでください、いや、そう思われてもしかたありませんが……」
 ダリューンがテーブル上の茶碗を横へ押しやった。
 「ナルサスよ、無関心は悪の温床であって善の味方ではない、というりっぱな台詞があるのだがな」
 「りっぱな、というより、こざかしい台詞だな。誰が言ったのだ?」
 「おぬしが言ったのだ、ナルサス。おれが絹の国へ旅だつ前日、ともに飲んだときにな」
 「……つまらぬことをおぼえているものだ」

『第2章 バシュル山』

 ナルサスはアルスラーンとダリューンに説明していた。いますぐ山をおりても、かならず包囲網に補足される。しばらくこの洞窟にこもって敵の不審をさそう。それからがナルサスの策の見せ場である。
 「ダリューンがよけいなことをしたおかげでカーラーンの一党が山を包囲したのだ、と申したいところですが、いずれにせよ包囲網はさけられないところでした。それを逆用する道を考えましょう」
 とナルサスは、むしろ楽しそうである。どうするのか、とアルスラーンが問うと、具体的には答えず、
 「自分たちののぞむ場所に、敵の兵力を集中させるのです。それがまず戦法というものの第一歩です
 いかに武勇があろうとも、それを費いきる以前に勝利をおさめること、無理をしないことが戦法の価値だ、とナルサスは言うのである。
 アルスラーンは、ちょっと反論してみたくなった。
 「ダリューンは私のために、大軍のなかを突破してくれたが」
 「あれは個人の勇です」
 断言して、ナルサスはダリューンに片目をつぶってみせた。ダリューンはかるく苦笑したまま沈黙している。
 「ダリューンのような勇者は千人にひとりもおりません。だからこそ価値があるわけで、軍の指揮者たるものは、もっとも弱い兵士を基準として、それでも勝てる戦法を考えなくてはならないのです。これが一国の王者ともなれば、もっとも無能な指揮者でも敵軍に負けないよう、あるいは戦わずともよいよう方策をめぐらすべきなのです
 ナルサスの口調が熱をおびた。アルスラーンは思う。結局、彼は隠者の生活をすてるべくしてすてたのだ、と。
 「申しあげにくいことながら、兵の強さにおぼれて敵をあなどり、戦法を案じるのをおこたったとき、ひとたび事態が狂えばどうなるか。アトロパテネの悲劇こそが、よき例というべきでしょう」
 アルスラーンはうなずかざるをえない。アトロパテネの野で、パルス軍の騎兵がいかに勇戦し、しかもそれがいかにむなしかったか、彼はすべてを目撃したのだ。

『第2章 バシュル山』

 「むりしないがいい。王妃さまのふりをするだけでもたいへんなのだから」
 長い沈黙は、観念したような声で破られた。やはり別人の声であった。
 「なぜわかったのです?」
 「香いで」
 ギーヴは形のいい鼻の頭に指をあてて笑ってみせた。
 「あんたと王妃さまとでは、肌の香いがちがう。たとえ同じ香水をつかっていてもな」
 「…………」
 「あんたが身がわりになって、その間に嘘つきの王妃さまを逃がす、そういう段どりだろう」
 宮女はだまったままである。
 「身分の高い人とは、そういうものだ。他人が奉仕してくれるのが当然と思っている。他人が自分のために犠牲になってもあたりまえと思って、感謝することをしらぬ。いい気なものさ」

『第3章 王都炎上』