「中国古典百言百語7 論語」 久米 旺生:著 PHP文庫
「論語」とは、随分と重厚な本を選んだものである。はっきりいって私は、「論語読みの論語知らず」である。いや、むしろ、「論語読まずの論語知らず」といった方が正しい。「中国古典百言百話」シリーズは、数ある中国の古典の中から、100の名言と100の史話を紹介したもので、これ1冊を読んだ程度では、論語を語る資格などない。もちろん、私は、これから論語を批評したりするつもりはない。ただ、この一冊を読んで、大変、感銘を受けた名言・名句を、自分に言い聞かせるつもりで、述べていきたい。
まず最初に、「三人行なえば、必ずわが師あり」という言葉に、目を引いた。孔子は、「かりに何人かで共同作業するとしよう。わたしにとって、かれらはみな先生だ。すぐれた人からは積極的に学べるし、劣る人はわたしに反省の材料を与えてくれる」と、この書で訳されている。つまり、端的にいえば、「誰からでも学べる」ということだ。普通は、自分より優れた才能を持った人から、自分にとってプラスとなる部分を吸収していこうと努力することはあっても、自分とは異なる考えを持った人や、自分より劣ると感じた人に対しては、反発したり、無視・軽視することはあっても、彼らから何かを学ぼうと前向きに考える人は少ない。この名言は、どんな人からでも学べるという、ポジティブな考え方に基底を置いている。人から嫌われるような人でも、反面教師として学ぶ点があることを、忘れてはならない。
これと似た話で、曾子の次の言葉がある。「どんなに才能があってもそれに溺れず、自分以下の者にも意見を求める。どんなに知識があっても、他人の見聞に徴してみる。能力を誇らず、学識をひけらかさず、争いをしかけられても相手になろうとしない」 この中でも特に、自分で分かっていても、敢えて他の者にも意見を求めることの大切さを知った。必ずしも、自分の知識が万全なものであるとは限らない。ちょっと聞いてみたつもりが、意外と教えられたり、斬新な発想や、思いがけない考え方を聞くこともできるかもしれない。会社においても、他人に意見を求めず、自分の考え方だけで、事を解決させようとする人をみかける。もっといい方法があるのに、その人は、自分の知っているやり方が一番だと信じて疑わない。こうならない為には、自分の考え方を説明して、意見を交わすことで、固執した考えから解放させなければならない。孔子も、「妥当な意見でさえあれば、どんなに低い地位にある人物の発言にも耳を傾ける」と言っている。経験豊富な上司や先輩だけが、師であるとは限らない。後輩や新人からの意見も尊重することを、教えてくれる。
「庭訓」という言葉をご存知だろうか? 簡単にいうと、「家庭における教訓」「家庭教育」のことを意味する。ある日、孔子の息子が庭を通りかかったとき、父親に呼びとめられ、詩と礼の大切さを教えた故事から生まれた言葉である。しかし、これから説明するのは、この庭訓のことではない。まず、次の文章を、抜粋する。「陳亢という弟子が、孔子の息子の鯉にこんな質問をした。あなたは先生の息子さんだから、さぞかし格別な教えを受けているんでしょうね。すると鯉はこう言った。いえ、そんなことはありません。しかし、あるときわたしが庭を通りかかると、父から詩は勉強したかねと声をかけられたので、まだですと答えると、詩を読まないと表現力がつかないよと言われました。それから詩を勉強しました。またあるとき庭を通りかかると、父から礼の勉強はしたかねと声をかけられたので、まだですと答えると、礼を学ばないと社会人として困るよと言われました。それから礼の勉強をしました。あるとすれば、この二つだけです、と。これを聞いて陳亢は、一つの質問で三つの収穫があったぞ、と喜んだというのである」 つまり、詩を大切にする理由、礼を必要とする理由、そして、君子はわが子だからといって特別扱いしないということを、彼は一を聞いて三を知ったわけである。論語には、「一を聞いて十を知る」という有名な言葉もあるが、これは、また別の話である。しかし、私としては、こちらの話の方が、とても印象に残っている。「一を聞いて十を知る」は、常人には、そう簡単に出来るようなことではないけども、「一を聞いて三を知る」ならば、努力しだいでは、身につけられそうな気がする。
先日、「読書力」のレビューにおいて、「読書論」に興味をもっていることを書き表した。そして、この「論語」においても、読書のことについて語られている孔子の言葉がある。「学びて思わざれば罔(くら)し。思いて学ばざれば殆(あやう)し」という言葉が、それである。読書にのみふけって思索を怠ってはいけない、思索にのみふけって読書を怠ってもいけない、という意味である。読書をすることによって、知識は身につくかもしれない。しかし、知識と教養は別物である。試験・受験においては、知識さえあれば十分だったかもしれないが、実社会においては、ただ詰め込んだだけの知識では、役に立たない。ただ本に書かれていることを、記憶した程度では、教養のある人とは呼べない。思索にふけって、あれこれと考えることで、はじめて力になるということを、この言葉は教えてくれている。確かに、本に書かれていることだと、すぐに信じてしまいがちな傾向はある。でも、いくつかの本を読み進めて、よくよく熟考してみると、いろんな考え方、書かれていることの正当性というものが、少しずつ見えてくる。たまたま読んだ1冊の本だけで、知ったかぶりをしてはいけないのである。…かといって、反対に、思索にふけっているだけでもいけない。自分の考えだけでは、独善的に陥ってしまい、それこそ、客観的な判断を生み出せない。どちらもバランスよく実践することを、孔子は説いている。
論語は、古来から、リーダーシップのバイブルの一つとして、発見されてから2000年以上たった今もなお、読み継がれている、「聖書」と並ぶベストセラーである。今回はその中でも、著者により、厳選された名言名句や、物語・話を読んだだけなので、本来、「論語」を語るには、全訳のものを読まないといけないだろうし、「論語」を語る資格もないだろう。しかし、いきなり、ぶ厚い本から入るのではなく、入門的な一冊から入ることで、「論語」を知り、「論語」を好きになっていくならば、レビューしたことも、まんざら無意味ではないと思う。PHP文庫の「中国古典百言百話」シリーズは、この「論語」の前には、「菜根譚」「韓非子」「三国志」「孫子」「唐詩選」「老子・荘子」と発刊されており、この後には、「十八史略」「漢詩名句集」「戦国策」「史記」「宋名臣言行録」「孟子・荀子」「大学・中庸」と続いている。とても、読みやすいので、是非ともオススメする。